2010年10月14日 (木)

内戦のコンゴで生まれた音楽がくれた希望 StaffBendaBilili

今の若い人たちは本当に働き口がないみたいですね。いままで若い子の働き口だった飲食系とかも、使いやすいおばさんの比率が徐々に増えてきて、履歴書に空白がある子なんかは露骨にはじかれまくる傾向もあるようです。
菅原文太さんが農場をつくって、働きたいけど働く場所を与えられない若者に、農業生産の場を提供しようとしている話を風の噂に聞きましたが、現代の日本は、うまく公務員なり企業なりのレールに乗り、その集団にぶらさがっていれば、たいした能力がなくても、それなりにいい給料をもらえて、そこそこの暮らしが保証されますが、いったんドロップアウトしてしまうと、とことんドツボにはまる社会ですね。
働きたい意思があっても働く場所も与えられない若者は、10年20年すればホームレスにならざる得ないわけで、この前、若いホームレスが行き倒れているのを見て胸が痛みました。
貧しくても、ともに分かち合い助けあいながら引き継がれてきた古きよき日本が崩壊しつつある中で、そんな日本よりはるかにどん底の国であるコンゴのストリートバンド”ベンダビリリ”が今世界中でブームを起こし、今この日本にツアーできてるようです。
日本の行く末を案じて暗い気分の毎日ですが、落ちるところまで落ちた後に見える希望みたいなものを、彼らの音楽は教えてくれます。ちょうど70年代後半に世界の音楽シーンに旋風を起こしたレゲエミュージックに遭遇したときと同じ感動を覚えました。

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ベンダビリリ”ポリオ”PV

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2010年3月12日 (金)

”トイレの神様”が伝える古きよき日本のハート

カーラジオでCBCラジオをつけていると最近”トイレの神様”という歌がよくかかります。
昨日坪井のりおさんの番組でその歌がフルコーラスでかかったんですが、思わずじわ~と涙があふれてきました。

淡々と歌うメロディラインの中で、日々の生活の中にこそ、人生の価値を見出せる”昔ながらの日本人”=”おばあちゃん”の生き様、そして死に様が、ありありと浮かんできてぐっとくる歌です。、こころあたたまる古への日本人に対す懐かしさと、その日本気質の世代が少なくなっていく寂しさが同時にあふれてきてたまりませんでした。

トイレの神様 植村花菜 歌詞情報 - goo 音楽

T254zqmesj

動画http://www.youtube.com/watch?v=Z2VoEN1iooE

おそらく年齢的に歌われている”おばあちゃん”は自分の母くらいの年代ですから、アメリカとの戦争でなにもかも奪われた焼け跡の中から、戦後の日本を作り上げてきた戦前世代の”おばあちゃん”だと思います。

うちの母もアメリカの無差別爆撃で、母と姉をなくしていますが、アメリカへの復讐心を人類愛に昇華させてきた世代の典型で、おもいやりの情が深いです。つくづく戦前世代の人たちは、人間の懐が深くてすごいなあと感じさせられます。

いまだに韓国では、日本に恨みをもってる人が多いみたいですが、全滅覚悟でアメリカととことん戦った日本人の場合は、圧倒的に絶望的な現実を前に、うらみも欲望も何もかもを完全に昇華させ、一番最後に残った大切なものがなにかを見つけ出すことができたんでしょう。そこがいまだに恨みから抜け出せない韓国と違うんでしょうね。

今の日本がだめになっているのも、政治でも、企業でも、そうした根源的な人間としての懐の深さのある人たちから、戦後のアメリカ占領軍のヤンキー教育を受けた計算高く自己中心的な欲望世代に代わったからかもしれません。

ただし、うれしいことに戦後を生きた”おばあちゃん”に通じる”愛のこころ”をうけつぐ”おばあちゃんの孫”の世代が、確実に育っているのも事実です。心を伝えるいい俳優が若い世代に多く出てきていますし、われわれみたいなミーハーばかのアラフィフ・アラフォーのアフォー世代とちがい、本質を見極める眼を持ち、地に足をつけて日本を再生してくれるかもしれないという期待も感じる今日この頃です。

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2009年7月 8日 (水)

阿弥陀経とキリスト教・・封印された死海文書そしてエヴァ

中日新聞の朝刊で、五木寛之氏の小説”親鸞”が連載されているんですが、毎日楽しみにしています。

うまくいえないですが、”他力本願”の”念仏”とは、ありのままの自分の弱さ、愚かさ、醜さを認めること、同じように業にさいなまれ苦しみを持つ他人を同胞として慈しむこと、すべての人を慈愛を持って包み込んでくれる阿弥陀如来の救いを希求することなど、位相の違う”こころ”のあり方を一体化させる過程をへて、”こころ”を魂の救済=愛の境地へとを導いていく一つの方便だと思います。

五木氏の連載小説”親鸞”では、ひとりの仏教者がその”他力本願=念仏”をひとつの方便として悟った上で、人間の魂の救済のあり方を試行錯誤していく、魂の遍歴を描こうとしていますが、本当の宗教のルーツにあるべき、”慈愛”を照らし出そうという、氏の集大成にふさわしい作品だと感じています。

そうした氏の小説に毎朝接する中で、最近ですが、”実はキリスト教の”メシア”と阿弥陀経の”阿弥陀如来”は、同じ存在ではないか?という事実に気づきはじめました。

時系列で言えば、釈迦が阿弥陀経を説いた時代より300年以上後に、キリスト教のベースとなる旧約聖書が創られていますが、旧約聖書誕生の秘密が書かれていて封印されているといわれている”死海文書”なるものに、実は、ユダヤ教~キリスト教の起源は、釈迦が方便として説いた阿弥陀経にあることが明記されているのかもしれません。

実は、ユダヤ教~キリスト教は、個人=私の意識が強い西洋に向けて、釈迦の説いた阿弥陀経をより信仰への強制力を強化したものとしてアレンジされたのではないか・・・という、西洋人が聞いたら怒り狂うような仮説ですが、中日新聞の連載小説”親鸞”を読んでいると、普通に想像できる事実として感じれるようになっています。

善人が救われるのに悪人が救われないわけがない・・・という逆説的な物言いの中に真理をなげかけている親鸞上人の他力本願=念仏の思想と

人間は罪深い存在であり、神に懺悔し、悔い改めることで神に天国に導かれるというキリスト教の贖罪思想

裏返せば、どんなに悪逆非道な行いをしたものでも、仏を念じ、神に祈れば許されるという救済の構造が実に似ていると思いませんか?(一歩間違うと御利益的・ご都合主義的解釈で、堕落につながりやすい反面、大衆人気を得やすい)

仏教とキリスト教の違いは・・・仏教者が、あくまでも他力本願=念仏を方便とした上で、万物を受け入れ、慈しむという”こころ”の導き方のひとつと悟ってとらえるのに対して、キリスト者は、すべてを罪深い人間としての存在の贖罪に集約させ、神の絶対化へと収斂させていくというように最終的なベクトルは大きく違いますが、”自分が不完全な存在であることを認め、救いを受け入れることから始まる”というスタートは同じだったんじゃないかと感じています。

ちょうど先月の27日から”新世紀エヴァンゲリオン新劇場版・・破”が劇場公開されています。”新世紀エヴァンゲリオン”では、”使徒襲来”~”サードインパクト=ハルマゲドン”に至るシナリオは”裏死海文書”を踏襲しているという設定になっていましたが、発掘されて以来、封印されたままの本物の”死海文書”には何が書かれているのでしょうね?

前作の劇場版”新世紀エヴァンゲリオン~AIR”は・・贖罪としての”人類補完計画”を遂行しようとする秘密結社”ゼーレ”、自己の絶対化としてゼーレの”人類補完計画”の利用を狙った”ゲンドウ”、運命に翻弄される”シンジ”たち”チルドレン”が絡む”終末”に向かうストーリーの中で、結論として、ミサト、リツコ、ゲンドウ・・・消滅していくひとりひとりの人間に対する”切ない愛おしさ”を余韻として残し、その余韻そのものをメッセージとした”秀作”だったと思います。

今回の新劇場版4部作も、最終的には、”大乗仏教”的な”愛”に集約されていくのでしょう。ぜひ劇場で見てみたいと思っていますが、上映劇場が少ないのと時間がないのとで、またビデオで見ることになりそうです。

”アニメ”という先入観を捨て、文学作品を見る感じで、宗教観的なテーマを絡めてみるとなにか深い物を感じれると思います。年配の人にもおすすめですから是非見てやってください。

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2009年1月23日 (金)

エヴァンゲリオン=おかま目線vsガンダム=おとこ目線

ガンダム派とエヴァ派とあるみたいですが、女性でガンダム派は圧倒的に少ないのではないでしょうか?

どちらも作者は男性ですが、きちんとテーマ設定して、やたらストーリーの意味を理屈付けしたがる、男目線の”ガンダム”に対して、”エヴァンゲリオン”はすごく女性的な是非をつけない心理描写が特徴的で、その反面、登場人物の女性の描き方はしっかり男目線で、おかま目線というよりユニセックス目線といえばいいのでしょうか?

ひとりひとりの匂いみたいなものを絡ませながら、最終的に漠然とした残り香だけしか残らない、”だけど切なく愛しいよねっ”みたいな”エヴァンゲリオン”独特の感覚は、単純明快さを求めるマッチョマンには、とうてい理解できるものではないでしょう。

単純明快といえばアメリカ映画です。

そこで、ふと思ったんですが、アメリカは日本に比べてはるかに男女平等といいますが、本当のところは、女性の男性化が進んだだけの社会といえるのではないでしょうか?

ヨーロッパのような深い文学作品はぜんぜん受けず、単純明快な娯楽作品しか受けないという映画市場の現状が、社会の深層を表している気がします。

逆に言えば、”エヴァンゲリオン”にはまる男子が多い日本は、ユニセックス化が進んでいるといえるのかもしれませんね。

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